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【其の三:紙のまち鷹岡】
静岡県の富士市、とりわけ私たちの住む「鷹岡」を、紙の歴史を抜きに語ることはできません。産業としての製紙が、経済のみならず、このまちの成り立ちに大きな影響を及ぼしてきたからです。 奈良・平安時代から、楮(こうぞ)と麻を原料とした和紙の生産が行われていましたが、その後原料として雁皮(がんぴ)が加わり、やがて麻に代わって三椏(みつまた)が主要原料として出現しました。 広く書画など文化的な面で、或いは生活面でも、和紙の用途が浸透し始めた江戸時代には、越前・美濃・播磨・石見(いわみ)・周防(すおう)・土佐・筑後・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)などと並び、駿河の国は主な和紙産地として発展を遂げていきました。 明治に時代が移り、諸外国から先進的な文化・技術が入ってきました。その中で、機械による製紙が導入されて実用段階となると、紙の汎用性、利便性はますます高まり、徐々に庶民レベルでも紙が使用されるようになっていったのです。 時代の要求に応えるかのように、明治7年に「有恒社」が東京日本橋に、翌明治8年には「蓬莱社」が大阪中之島、「抄紙会社」が東京王子に、いずれもイギリス製の抄紙機を導入して操業を開始し、更に続々と東京、神戸、京都などに製紙工場が設立していきました。
草創期の製紙工場は、木綿ボロや稲ワラなどを主に原料としていましたが、いずれも大量消費を支えるためには問題を抱えていました。その為、木材パルプを輸入し、原料として混ぜるようになっていきました。 いずれにしても資材の安定供給が最重要課題でしたから、国産パルプの生産を軌道に乗せることが業界の発展のためには不可欠でした。明治19年頃から、各地でSP(サルファイト・パルプ)の生産が試みられましたが、なかなか本格生産には至らず、日本最初のSP生産工場が操業を開始したのは、明治22年、静岡県気田村(現在の周智郡春野町)でした。それに遅れること1年、当地・富士郡入山瀬村にて、富士製紙が操業を開始しました。 SP(サルファイト・パルプ)とは、亜硫酸パルプとも呼ばれ、細片化した木材(チップ)を重亜硫酸カルシウム等の溶液で煮て、木材の中に含まれた不要の成分を溶出させ、繊維化したパルプのことです。薬品により繊維が傷むため強度に難があるものの、当時としては画期的な製法でした。富士製紙では、このSPだけでなく、GP(グラウンド・パルプ)を使った抄紙を国内で初めて行った製紙会社です。GPとは、回転する砥石に木材を押しつけ、擦り潰して作る砕木パルプの代表的なものです。 明治18年頃からの好景気の中、近代産業を中心とした日本経済の発展に伴い、文化・産業両面で紙の需要が急速に高まり、地元での三椏原料確保に目処が立ったこともあって、本格的に操業に向けて動き出しました。そして、当初は原田村での水力確保を検討するも総量不足のため断念。入山瀬・潤井川の水を動力用として使用許可を得、更に富士山の御料林から、大量の樅(もみ)、栂(つが)、白檜(しらべ)、唐檜(とうひ)などを、原料として払い下げの許可を得て、現在地に設立する運びとなりました。
◆馬車鉄道と鷹岡の繁栄 明治23年1月4日、日本で最初の砕木パルプを使用した機械抄き和紙工場として、富士製紙(現・王子特殊紙(株)第一工場)が米国ブラック・クローソン社製の抄紙機を購入し、本格的に操業を開始すると、潤井川の水や豊かな地下水と、富士山の豊富な森林資源が結びついて、以後、製紙の町として発展していきました。 操業が始まると運搬の問題が発生します。木材の搬出方法としては、潤井川の水流等を使って流送する方法、馬車やゴロ曳きなど、基本的には富士山麓の緩斜面を有効利用した運搬法が取られました。しかし、輸入機械などは清水港から陸揚げされ、東海道線で鈴川駅(現・JR吉原駅)まで運ばれ、そこから農道を縫うように苦労して運ばれました。ちょうど同時期、大宮(現・富士宮市大宮)〜吉原(現・富士市吉原)間に「大宮新道」を開設しようとする動きがあったため、会社はこれに全面協力し、鈴川−大宮間に馬車鉄道を走らせることに取り組みました。 明治23年6月には富士馬車鉄道が、鈴川―大宮(現・富士宮)間12.4qに開通。さらに大正2年7月には富士身延鉄道(現・JR身延線)が開通し旅客や貨物輸送が飛躍的に伸び、製紙業の興隆に加えて、養蚕や茶業など近代農業の成長と相まって鷹岡は大きく変貌しました。これを契機に人口の増加と商店街の形成がなされ、商業も発達が促されました。 製紙工場は、大きな抄紙機を中心に装置が配備された、一大プラントとして成り立っています。そのため工場そのものが巨大な機械のようなイメージを与えるのか、当時の富士製紙は、広く岳南地域一帯で「1号機」と呼ばれていました。以降、大きな工場が各地に出来る度に「2号機」「3号機」と呼ばれ、鷹岡の街そのものを「1号」と称する風習さえありました。それほど、製紙工場が当地域に果たした影響や、役割は大きかったのです。 鷹岡地区には、富士製紙を追いかけるように多くの製紙会社が続々と設立され、規模の大小こそあれ様々な紙や紙加工製品を世に送り出すようになりました。また、製紙に関連した工作機械メーカーや、商社、設備・装置を修理、或いは整備するための多種多様な業者が、技術者の育成とともに次々と開業し、小さな町としては考えられないほど、多くの製造業者が一時代を築き上げていきました。 鷹岡の製紙工場(開業年)
昭和41年11月には「鷹岡町」「吉原市」「旧富士市」が合併し、現在の富士市が誕生しました。つまり当地は「富士市の鷹岡」として新たに再出発した訳ですが、合併当時に建設された国道139号線や東名高速道路が及ぼした様々な影響、そして今また第二東名高速道路建設を目前に控えております。21世紀において「鷹岡のまち」は更に大きな変貌を遂げていくことでしょう。
◆夜明けの像 富士製紙入山瀬工場の操業にあたり、その第1号マシンとして、ブラック・クローソン社(米オハイオ州)製の長網抄紙機を輸入して稼働をスタートしました。機械が搬入された際、解かれた梱包の中に部品類とともに一体の像が入っていました。当初は、それが何なのか分からなかったので、担当者が同社に問い合わせたところ、幸運をもたらすお守りとしての意味を持つマスコットだという回答を得ました。黒人少年をかたどった高さ60cmほどのマスコット人形は「PAPER」と書かれた旗を右手にかざしており、その後も長い間、会社事務所の玄関脇に据えられていました。
平成4年、地元の鷹岡中央振興会が中心となり、このマスコット実物から型取りして復元した銅像を、鷹岡本町商店街のポケットパーク内に建立しました。今はなき「鷹岡町」の誕生から100周年を機に、地元の有志が計画して実を結んだものでした。この鷹岡を象徴するモニュメントには、再びこの街が、輝かしい時代の幕開けを迎えられるよう、願いを込めて「夜明けの像」と名付けられたのです。
地球環境との共生
鷹岡の製紙会社 (平成19年4月現在)
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